介護逃れは犯罪です

日々の子育てと介護、過去の記録をとりとめなく書いてます。

認知症の母が大腿骨を折った日のこと

一昨日の日記で母の事にふれた、翌日が母の面会日だったので
「明日は母の親友を母の面会につれていく何が最後になるかわからないので出来ることは早めに」と。

予定通り、午前中に母と親友さんは半年ぶりの再開を果たした、母もよそには見せない笑顔で喜んだ。私も一安心、次回の面会も予約して帰った。


そして、その日の夕方施設から母が転倒したと連絡があり救急搬送。
病院で診た結果、大腿骨が真っ二つに折れたとのこと、手術して回復するまで入院だ。

コロナの中、老人ホームでようやく面会が再開されたのに病院に入ってしまってはもう会うことは出来ない、出来たとしても私だけだ。

手術は金曜日、癌の進行もあるので脚を開いてみないとわからないとの事。


帰りに母に少し会わせてもらえた、母は痛みと不安をうったえる。
母の手を握り、額に手をあててしっかり目をみて「大丈夫だよ、心配ない、安心して、すぐ帰れる」と何度も伝えた。「大丈夫」と何度も互いに繰り返して信じ込ませて別れた。

母は救いを求める人になっていた。
何も記憶できない、認知できない母に伝える言葉は骨折やコロナウィルスなど状況の説明ではなく、一瞬でも安心させることだと思った。

認知症になった日のこと

 

この日のことは忘れない。

 

母の異変に気付いて一か月、カラオケに連れて行った。

久しぶりのカラオケにご機嫌な母のリクエストは

岸壁の母

正しく歌えてホッとしたのも、つかの間、

母は「岸壁の母があるのね」と嬉しそうにリクエストした

そのあとの都はるみも同じように何度も歌った。

 

同席していた叔母も私も動揺を隠せなかった。

この頃、私の3番目の末っ子はオムツもとれてなかった

妻は夜勤など不規則な仕事、その中で綱渡りのように

共働きと3人の子育てを両立していた。

 

この頃は介護サービスはおろか、そのための病院すら

どこに行けばよいかわからず、こんな事になってしまった

事への後悔と将来の不安で目の前が暗くなるようだった。

 

 

 

介護休業の経験

もう3年以上前の話…

介護休業をとった、疲弊して働くことを諦めかけて

いたが職場の理解もあり、異例の介護休業の取得。

 

そして介護休業も残り三分の一。

会社がないのでいつもで休めるという安心感が

却って無理させたか、結局朝から晩まで母の世話をしていた。


休み前半は母の終活。
認知症が進む前に父の墓参りや、宮城へ帰省。

そして宮城から夜中に戻り、翌朝は子供の運動会、

(ほんの数年前のことなのに、今と比べてとても体力があった)。

 

特別じゃない日は平日のランチ、部屋の改装がてら買い物

母が出来るだけ心残りがないように努めた、無論わたしにとっても


限られた休みなので1日も無駄にできない、

宮城への帰省をはじめ、予定を立てたら即実行みたいな事の繰り。

後半はこれからの事を考えた。
ひとつは母と暮らすための部屋作り、
共働きなので、母ひとりを私の家に残せないが週末くらい一緒に

過ごせるよう、一階の子供部屋を二階に移し、そこを客間にした。

 

そして、この休みで一番の目的は、母の家の整理、

この日ようやく始まった。

認知症は生活環境を変えると余計に混乱を招くとの事だったので

軽く整理くらいしかしなかった。

しかし母が夜中にひとりで家の中をかき回してしまい大切な物を

無くすことが頻繁になった、私たちはその都度時間をかけて探す。

 

平日は会社が終わってから、子供を迎えに行くまでのわずかな

時間で母の世話をするのでもの探しはとても大変だ

かといって見つからなければ世話もできない。

 

まずはたくさんの要らないものを処分して、

物が隠れる場所を減らしたいと思った。


ただし、その前に行いたいのはゴミの処分、

ゴミ箱を開けると、丸まる太ったショウジョウバエが沢山

飛び出してきた。

あわててフタを閉めて殺虫剤を探して噴射、団地なので

隣家は壁一枚、次からは油断できない。

そしてベランダの奥にゴキブリの巣

殺虫剤を撒いて、飛び出てきた物を潰すの繰り返し。

ようやくベランダのゴミが片付いた、近所迷惑で通報されたら

住み慣れたこの団地をはなれられなくなる、休む前からずっと

心配していたことが片付いた。

お次は洋服、食器、すべてこれ頂戴ちと言って母のプライドを傷

つかないように処分した。

そして夕方、5時になったら時間切れ車の後部座席を処分品

でいっぱいにして、学童保育、保育園をはしごして子供たち

3人と帰宅。

ご飯を作って、お風呂に入れて、歯を磨いて、途中おむつを

取り替えたり。妻は夜勤や遅番、早番で不規則なので一人で

やった。

子供のころ、母に逃げられた父と二人暮らしをしていたおか

げで何でもできる。

そして何より、自身が子供のころに味わった不自由だけは

させたくないという気持ちが強かった。

もっとも、すでにこんな暮らしだけど…

子供を寝付かせて全部終わって腰かけるのは10時過ぎ、

会社がやすみなので、風呂は入らずなし崩しに寝てしまう。

 

この頃はとにかく介護体制を整えて行き当たりばったりの生活を

抜け出したかった。